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二人の偉大な音楽家のコーヒーにまつわるエピソード

指揮棒

コーヒーがヨーロッパに普及し始めたのは1600年代。

はじめの内は”悪魔の飲み物※1“とされ飲用に反対している人も多かったですが、次第に香りと味に魅了される人々が増え、上流階級を中心に広まっていく事となります。

このページでは偉大な二人の音楽家のコーヒーにまつわるエピソードを紹介したいと思います。


※1 キリスト教徒の聖なる飲み物であるワインをイスラム教徒は飲めないため、悪魔からコーヒーを与えられる罰を受けているとされていた

バッハとカンタータ第211番

ヴァイオリン

ヨハン・ゼバスティアン・バッハは18世紀にドイツで活躍した作曲家・音楽家。

後世、西洋音楽の基礎を構築した作曲家であり音楽の源流であるとも捉えられ、日本の音楽教育では”音楽の父”と称されている偉大な音楽家です。

そのバッハが作曲したカンタータ第211番は通称”コーヒー・カンタータ”と呼ばれています。

当時はコーヒー・ブームの絶頂期で「コーヒーは体に悪い」「女性は不妊症になる」等、コーヒー排斥論が出る程でした。

歌詞を書いたのは当時の人気詩人ピカンデル。

コーヒーが大好きな娘を父親が叱り、これに娘は猛反発。家中の人間も巻き込んだ家庭内騒動に発展していきます。

「このはねっかえり!コーヒーをやめろというのが分からないのか」

「まあまあお父様、そう厳しく怒らないで」

「ああ、コーヒーの味わいのなんと甘い事。千のキスより素晴らしく、マスカットで作ったワインよりももっと柔らか。コーヒーなしじゃやっていけない。私を喜ばせようとするならコーヒーをプレゼントしてくれるだけで十分」

「もしおまえがコーヒーをやめないなら結婚パーティにも行かせないし、それどころか散歩にさえ行く事を許さないぞ」

「コーヒーさえくれるなら結構です」

・・・といった感じで何も必要ないコーヒーさえ飲ませてくれるならと問答は続きます。

加熱したコーヒー賛否論議を音楽で皮肉ったバッハですが、バッハ自身は大のコーヒー好きだったと推測されています。

意外と几帳面だったベートーヴェン

トルココーヒー

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは18~19世紀に活躍したドイツの作曲家。

「古典派音楽の集大成」「ロマン派音楽の先駆け」と称され、日本では”楽聖”とも呼ばれる偉大な音楽家です。

話はベートーヴェンが誕生する前1683年に遡ります。

この年、「音楽の都」ウィーンに初めてカフェが誕生しました。提供されていたのは”トルコ式コーヒー”。

この店をきっかけにしてウィーンにコーヒー文化が広まっていく事となります。

ウィーンの「青い瓶」とコルシツキー
コーヒーにまつわる逸話は世界各地に存在しています。 有名な逸話といえばコーヒーの起源に...
トルコ式コーヒー(ターキッシュコーヒー)
トルコを起源として中近東諸国などに広まった伝統的なコーヒー。イブリックというひしゃく型のポットにコーヒー粉(極細挽き)と水、そして砂糖を入れ、弱火で煮込み上澄みを飲む。

1787年にベートーヴェンは初めてウィーンを訪れます。目的は憧れを抱いていたモーツァルトに会うため。

ですが、この時は母マリアの危篤の報を受け故郷のボンに戻る事になります。

ベートーヴェンが再びこの地を踏んだのはそれから5年後の1792年。モーツァルトは既にこの世になく、才能を認めてくれたハイドンへの弟子入りのためでした。

ウィーンに住み始めたベートーヴェンはいつしか自分でコーヒーをいれるように。街の雰囲気の中で身につけたルーティンだったのでしょう。

コーヒー一杯につき、コーヒー豆60粒。

彼は毎朝几帳面にきっちりと60粒数え、豆が真っ黒になるまで煎り、真鍮製のトルコ式ミルで挽いて、コーヒーをいれたそうです。

ベートーヴェンが使っていた形のミルは「ベートーヴェン・ミル」と呼ばれており、現在でもディスプレイなどで見かける事があります。

服装などに無頓着で二面性のある性格を持つ変わり者。

潔癖症で手を執拗に洗っていたというエピソードも残っていますが、ベートーヴェンは意外と几帳面だったのでしょうか。

その後、耳を病み、数々の苦難で精神を壊しながらも数多の名曲をこの世に残す事になります。

私の最も大好きな音楽家であるベートーヴェン。多くの試練に立ち向かった彼を励まし慰めたのは毎朝飲む一杯のコーヒーだったのかもしれません。